名古屋をどり/2024NEO舞踊劇「名古屋ハイカラ華劇團」に纏わるお話し①
こんにちは!
このサイトで綴ってきた東海テレビ「西川流初舞」。
番組に因んで、代々のお家元についても書かせていただきましたが・・
西川流と言えば、毎年秋に開催されている『名古屋をどり』は外せません。
ここでは、"名古屋をどり"についてのよもやま話、そして、今年10月19日(土)~20日(日)に開催される【第七十七回 名古屋をどり】についてご案内して参ります🙇🏻♀️
はじまりは
二世・西川鯉三郎さんが、戦時中の慰問活動を経て、終戦を迎えた1945年9月に、「踊って欲しい」という県からの要請を受けて始めたのが、この「名古屋をどり」なんだそうです。
戦禍の中でも、兵隊さんや、多くの人々の心を癒し続けた西川流の舞踊。それは、同時に・・
踊っていた鯉三郎さんたちの心も支えたようです。
町も、人々の心も空っぽになった当時、県からの・・
「戦後殺伐とした世の中、すさんだ人の心のためにぜひ。すぐには東京から芸人は呼べないから…。
西川さん、〈名古屋をどり〉として、みんなの娯楽に代えて下さい」という依頼に、鯉三郎さんは、本当に涙が出るほど嬉しかったと、語っていらっしゃいました。(『鯉三郎百話』中日新聞本社発行より)
第一回名古屋をどり
第一回目の名古屋をどりは、昭和29年9月24日から3日間。
わずかに焼け残った、名宝劇場(名古屋東宝劇場)で開催されました。
演目は、
常磐津『釣女』
妻を授かりたい独身の大名が、恵比寿神社に参詣して、夢のお告げにより得た釣り竿と釣り針で、見目麗しいお嫁様を釣り上げるというお話
常磐津『お夏狂乱』
姫路の米問屋但馬屋の手代の清十郎は主人の娘お夏と密通、大坂へ駆落しようとしたが運悪く捕らえられ、清十郎は大金を盗んだ嫌疑を受けて死刑となり、お夏は恋しさのあまり気が狂う。恋人清十郎に死別して乱心したお夏が秋の田舎道をさまよう姿を、里の子、酔った馬士、順礼の老夫婦などを配して詩情豊かに哀れに描いたお話
歌謡舞踏(※)『日本風俗舞踊詩』
(※)民謡や歌謡曲を踊りで綴ったもの
第一回(西川流家元_名古屋をどりnoteより)
出演者は全部で70人ほど。
地方(じかた)さん(お座敷で三味線を弾いて唄を唄ってくれる芸妓さんのこと)もいらしたそうですが、全員で代わる代わる三味線を弾いたり、踊ったりされたそうです。
客席は超満員で、大盛り上がり。
人々の娯楽に飢えた心に、灯りを燈したようです。
『お夏狂乱』のお稽古で踊る鯉三郎さん
名物にしたい
その後、二回目の『名古屋をどり』が開催されたのは昭和23年11月24日。
一回目の名古屋をどりから丸三年経っていました。
ですが・・
6日間の日程で、出演者も大幅に増え、『東おどり』や『赤坂おどり』など有名な舞踊会の出演者はみんな芸妓さんという中、老若男女問わない舞踊家もいるし、芸妓さんもいるという他にはない特色を持った公演となりました。
鯉三郎さんにとって、この"長期公演"というのがねらいの一つで、
二回目以降も、2日間ずつ増やし、一番長い公演は22日間というロングランに至ったそうです。
第ニ回
会場に詰めかける観客たち
しかし、一回目、二回目と盛況だった『名古屋をどり』ですが、三回目くらいから、だんだんとお客様が離れ始めたそうです。
第三回目
それは、初めのうちの物珍しさがなくなり、他にも様々な公演を楽しむ機会が増えたこともあります。
けれど、そこだけではない、もっと根本的な問題があったようです。
小さい頃から歌舞伎の世界に身を置き、家元になってからも東京と名古屋で活動を続けていらした鯉三郎さん。そんな鯉三郎さんには、【名古屋でしか見られないものを作りたい】という強い思いがありました。
だからこそ、東京よりもどこよりも立派で豪華な舞踊会にしたいと奔走します。
ところが、その思いが、逆に世間の反感を買ってしまうことにつながってしまったのです。